人生50年を過ぎて「 何だか最近疲れが抜けないなぁ 」とか「 新しいことにチャレンジする意欲も湧かないなぁ 」と少々ポテンシャルが下がり気味の人に向けて奮起を促す人物を紹介します。
伊能忠敬 はご存知でしょうか?
そう、学校の教科書にも出てくる日本で初めて日本地図を作った人です。
それだけ聞くと「 あー凄いなぁ 」で終わってしまいがちですが、これが50歳を超えてから17年の歳月をかけて達成した偉業といったらどうでしょう?
ちょっと興味湧きますよねぇ。(・・?
体力、気力が衰えを感じる年齢から、彼をそこまで奮い立たせたものは何だったのでしょうか?
そして、50歳からもう1つの新しい人生、まったく違った自分を切り拓いていくには、どんな意欲、準備が必要だったのか、このスーパーおじいちゃんの行動を検証していきます。
目次
伊能忠敬の経歴
まず50歳までは どんな半生を送ってきたのでしょうか?
伊能忠敬は、房総 佐原村( 佐原市 )で伊能家に17歳のとき婿養子に入り それ以後、家業と佐原村のリーダーとして利根川の堤防の修繕など治水に人事し村政に尽くした とあります。
婿養子と村のリーダー ・・・現代の人が会社勤めをして家のために頑張っているのと同じように普通に村政と家業に邁進していたのですね。
そして49歳で隠居し50歳のとき江戸へ出て測量の勉強を始めます。
時代が江戸時代ですから身勝手なことはできないという「 縛り 」がありますし、婿養子なので家業に専念しなければならず、実際に嫁は4つ年上の女房だったので頭が上がらず何か決められたレールの上で優等生を演じていたのではないでしょうか?
好奇心旺盛な行動派ですので、やりたいことはあったはずですがジッと我慢の子でひたすら受け身の生活に甘んじていたと想像します。
それが50手前にして女房とも死別し、隠居の身になったことで自由を手に入れたんですね。村政の仕事で稼いだお金もあります。こうなれば今まで内に秘めていたやりたかったことの爆発的な起爆剤になったのではないでしょうか!
しかし爆発しただけでは、「 第二の人生の謳歌 」が叫ばれる令和に至る今の時代の最高に参考となる歴史的人物にはなれないでしょう。
そこには底知れず戦略とタイミング、いくつかの要因がありました。
伊能忠敬の戦略
何事も「思いつき」や「成り行き」では思うようにはいきません。そこには緻密に計算された戦略が必要になってきます。
伊能忠敬の場合も数々の要因が上手く絡み合って日本地図作成にまで至った経緯があります。その要因を探ってみましょう!
人並外れた意欲、熱意があった
自分がやりたいことが明確だった・・・まずはこれがないと始まらないでしょう。
こういったものは今までの人生で何か関わりあったものの中から生まれてくることが多いでしょう。まったく下地のないものを1から始めるというのは少々難しいと感じます。
経験の中で何か快感を感じたもの、面白いと感じるものでなければ熱意は続きませんもんね。
これは想像の域を超えないのですが、忠敬は長く利根川の治水の仕事に携わっていました。
自分の得意とするところで米の生産や飢饉による被害を防ぎ、村の人々のためになっていたということがあげられます。自分の専門的尽力が世のため人のためになっていることに、たぶん脳内はドーパミンで溢れかえっていたことでしょう。
もっと新しいことを勉強して世のために活躍したい!と意欲が湧いてきていたのでしょう。
情報伝達に最適な環境
房総( 千葉 )の佐原という利根川べりにあるという地理的な環境は、物流や情報の流れという点で申し分ないものだった。利根川から江戸川へ物流が流れる過程は江戸の人との情報の流れでもあった。
それは常に最先端である江戸の情報( 刺激 )を受けられる状況でした。
この程よい距離感が忠敬にとっては、良いスタンスになったのではないでしょうか。環境の良さが気持ち的な自由度を育んでいったと考えられます。
このスタンスが情報過多で縛られずに将来の「 希望 」という点に火をつけ夢を抱き続けられた要因だと感じます。
情報…大事な要素ですね。しかも最先端の情報を得るということは今後の明暗を分ける要素です。
時代の流れに乗ることができた
時は1770~1800年 江戸時代・・・この頃の日本は啓蒙精神という知的な新しい秩序が芽生え始めていた。
鎖国政策をとっていた日本ですが、8代将軍吉宗の頃から宗教書以外のヨーロッパの科学書や医学書などが輸入され新鮮な知識に躍起になっているときでした。
「 解体新書 」の翻訳が前野良沢、杉田玄白によって刊行されたのも1774年です。
こういった時代の流れを肌で感じながら、自分の得意分野で一旗揚げてやろうと野心を燃やしていたに違いありません。
やはり活躍する場がなければ、いくら才能があって努力しても日の目を見ることもありませんし。まさにタイミングが良かったんですね。
時代の流れにマッチしたことを追求していく・・・大事な要素です。
いい師匠を選択する目を持っていた
1795年、50歳で江戸に出た忠敬は、測量や天文学を学ぶため、当時最先端の知識と生きた情報を持っていた高橋至時、間重富の門人となり迷わず弟子入りしました。
この選択がのちに日本地図作成という大偉業を達成できた1番の要因でしょう。
実力のない人を師匠にしてしまったら先は見えています。最高の師を選ぶには、まず情報収集そして本物を選ぶ目を養うことが肝心です。
自分の望むものに相応しいかどうか、自分の意志で判断する。曖昧なことは納得いくまで調べまくる!こういった情熱が大切だと思います。
時に伊能忠敬50歳、高橋至時31歳。19歳も年下の師匠でした。
戦国武将や三国志は、自分よりも遥かに年下の軍師を迎えます。年下の師匠から学べる人は向上心があります。
支えとなる良き理解者がいた
江戸に出てから忠敬にはエイという内縁の妻の存在がありました。この女性、測量や文芸に秀でたかなりの才女だったらしく、おおいに手助けをした とあります。
知的分野で勝負する忠敬にとって、その道に相応しい理解者として想いを共有できる存在だったのではないでしょうか。
これが志を共にした仲間でも、男同士だと多少は強がりや虚勢を張ってしまうものです。その点、心を許した女性というのは、弱音も何もかも包み込んで解放させてくれ、これからの意欲につなげさせてくれるものがあります。
忠敬さん、彼女に夢を語ったんだろうな… そして彼女も応援したのでしょう。
どんなに苦しくて挫折しそうでも、こういった理解者の「 あなたなら必ずできるよ。」といった言葉を、一生忘れません。
そして・・・その言葉どうりの男になっていきます…。
下世話な想像でスミマセン。でも…
良き理解者・・・貴重な存在です。
豊富な資金力があった
夢の実現とお金の関係は無視できません。測量には機材が必要です、日本全国を回るにもお金がかかります。そのほとんどを自前で賄い、機材は自分で買いそろえたもので自己所有でした。
私は測量の機材については詳しくありませんが、望遠鏡やコンパス、方位磐など幕府の公的機関が揃えている機材に匹敵するものだったといいます。
そして第1回測量旅行の時は、80両を自前でポォ~ンと出しました。80両というと今のお金に換算すると1000万円くらいでしょうか…
どんだけ蓄えていたねん、伊能さん!って感じです。Σ(゚Д゚)
一介の百姓が、こんな大事業を幕府に認められたのも豊富な資金力がものを言ったのだと思います。これぞ伊能忠敬の先を見据えた戦略だという他はありません。
伊能忠敬 成功の要点 まとめ
熱意・情熱 環境 情報 師匠 理解者 資金力・・・成功に至った要因を数々挙げてみましたが、これらの条件を少しでもベストにもっていけば成功への近道が見えてくるでしょう。
そして5年間の勉強を経て55歳から17年間全土を歩き、実測地図を作成しました。
私が思うに、こういった要因もありますが 1番のポイントは底知れぬ体力だったと感じます。
160㎝のお爺さんがスタスタと全国を歩く。その距離約4万キロ、地球1周分の長さです。
歩けなくなったり病気をしたら、そこで頓挫してしまいます。やはり最終的には体力のある奴がのし上がっていくのです。
しかもこれは歩測でしたので、1歩70㎝という自分の歩幅を崩せません。まるで精密機械のように歩いたんですね。まさに健脚怪人と呼ばれるに相応しい凄まじい強靭な足腰です!
今の私など車で回ってこいと言われても疲れるから嫌です・・・(>_<)
しかし、ここまで忠敬を突き動かしたものって何だったのでしょう?
今でいうと定年退職して束縛から放たれた状態で、自腹を切ってやることですから強制ではなく自分の意思です。これは脳みそが快感を感じていないとできないことです。
目的を達成するために やり続ける快感… この快感がとてつもない行動力を生み出した要因ではないでしょうか。
晩年、最高に面白くて楽しい人生だったと思います。
最後にジャーナリスト・ティム・レドモンドの言葉を載せておきます・
「 目を引くものは多いが、心惹かれることは少ない 追い求めるべきは心惹かれることだけである 。」
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